-国際司法裁判所、調査捕鯨中止訴訟-
ニュージーランド人で日本に行ったことがあるとか、親しい日本人の友達がいる人はやはり少数でしょうから、彼らはこの地での日本に関する報道を元に日本についてのイメージを作っていくのではないかと考えています。日ごろは偏った報道が目立つと考えてきました捕鯨問題について、今年の6月から7月にかけてオランダのハーグにあります国際司法裁判所での調査捕鯨中止訴訟についての報道を検証してみたいと思います。
2010年6月にオーストラリアが通称 JARPA IIと呼ばれている南極海における日本の捕鯨調査の中止を求めて国際司法裁判所に訴えたのが事の始まりです。今年の6月までに証拠書類などの交換がなされて、今年になってやっと審理の運びとなりました。初めの3日間がオースラリア側の弁論、そして続く3日間が日本側の弁論、その後にニュージーランドがオーストラリアを支持する意見陳述と進められました。
6月26~28日 豪州側弁論
7月2~4日 日本側弁論
7月8日 ニュージーランドが意見陳述
7月9~10日 豪州側弁論
7月15~16日 日本側弁論
新聞報道 6/28「日本の捕鯨は何ら新しい科学(的知見)をもたらさなかった」
6月28日のニュージーランドヘラルドはこの日までに行なわれたオーストラリアの弁論を「日本の捕鯨は何ら新しい科学(的知見)をもたらさなかった」と言うタイトルで報道しています。日本のいわゆる科学的捕鯨調査はミンク鯨が多量のオキアミを食べると言う事以上の発見はなかった。これは科学調査などではなく、ただ大量に殺された鯨から体の部分を多量に取っているだけだ。」この弁論に立った弁護士は自分の個人的な思い出まで引き合いに出し、「私の記憶によりますと1972年に生物の先生が「この調査は南極の生態系の理解に何ら貢献していない。」と言っていたと。
「鯨から取った大量の体の部位が採集されているが、誰もその調査の目的を知らず、したがってその結果を評価するのは不可能だ。日本の目的は鯨を殺す事で真の科学的計画の確立ではない。この計画の正体は政策であり商業(politics and commerce)である。」
さらには「日本の見解を一言で言えば、『我々がそれは科学だと言えば、それは科学なのだ。』本当の科学調査と言うものはきちっと定義された達成可能な目的と適切な方法が用いられ、同僚によって適切な批評を受け、研究の為に資源への有害な結果を避けなければならない。 JARPA IIにはこれらがない。」オーストラリアは鯨を殺さないで出来る調査についても議論するとして「satellite tagging, tracking and biopsy sampling」の名前を挙げています。
そしてこの記事は日本が次の火曜日から弁論を開始し、7月8日にはニュージーランドの法務長官が意見陳述します、と結んでいます。
コメント
これらの記事内容は、オーストラリアが弁論した事を紹介する記事ですから、逐一これに対する日本の立場に言及していない、すなわちバランスを欠くのはやむを得ないかと思いますが、生物の先生がどう言ったとか、何らの証拠に言及する事無く、日本の調査を一方的に科学的成果はないと言い切った上で日本の立場は「日本が科学と言えば科学なんだ」とか、国際連合の最高位にある裁判所での議論にしては心証を悪くする事だけを狙った幼稚な議論の様に思われますがいかがでしょうか?
新聞報道 7/2「日本は捕鯨プログラムを弁護」
7月2日にはこれに続いて「日本は捕鯨プログラムを弁護」と言うタイトルの記事が出ました。オーストラリアの陳述を受けて裁判所での日本の側の主張が紹介されているのかと思いましたが、よく見ますと「今週、捕鯨活動を擁護するだろう」となっていて、日本側のスポークスマンであるシカタ氏にAAP(Australian Associated Press)の記者がインタビューした記事でした。すなわちニュージーランドヘラルドの記者によるものではなく、オーストラリアの記者の記事をそのまま転用してきたものの様です。
このシカタ氏が「我々の主張は我々の調査計画が注意深く熟慮、計画され持続可能であると言う事だ」と述べたのを受けて、「先週オーストラリアが国際司法裁判所で日本の調査は商業的な配慮にかられたパロディーだと猛烈な批判をした」と続いています。
日本側の専門家としての証人ラース ワロエ氏が裁判で証言しますとした後に、「オーストラリアはこの人物の信用性を攻撃しています。なぜならこの生理学者(physiologist)はノルウェーの商業捕鯨に関係していた。」と。
さらには前述で紹介したオースラリアの見解「鯨の調査は殺さないで出来る方法が可能とオーストラリアは信じている」を引用後に、「カンガルーの様な陸に住むほ乳類の研究に比べてずっと難しいものだ。」と日本の見解を紹介しています。
コメント
これだけでは何の議論か分からないかもしれませんので、少々解説してみます。これは主に資源の回復(鯨の個体数)を調査するときに出てくる議論です。例えば目視で数えれば分かると言うのが捕鯨反対派が主張する意見の一つですが、もちろん日本の調査でもこれをやっています。日本の主張は鯨は長く海中にもぐっていて、呼吸の為に海面へ上がってくるのはとても短い時間だから目視調査だけでは、資源回復状態を把握する事はきわめて難しい。捕まえて解体する事によってメスの妊娠率(何年ごとに妊娠するか等もクジラの種類によって異なるそうです)やクジラの年齢をチェックする事(耳垢から調べられるそうです。)によって若い集団かどうかなどを見るそうです。大きくてあまり海面に姿を見せない鯨の場合は陸上の動物の調査と同じ様にいかないと言う議論のことです。
オーストラリアの弁護士ジェイムズ クローフォード氏が先週、裁判所で述べた証言を再度紹介しています。「商業捕鯨の再開を待つ間に、クジラ肉を売る事によって捕鯨産業を維持する事が日本の本当の目的だ。」そしてこの記事は「オーストラリアは今年の終わりまでに裁判所が捕鯨を禁止すると言う決定を下す事を期待している。」と結ばれています。
「日本が弁論した」と言うタイトルの記事の割には逐一オーストラリア側の見解を再度紹介しているのはバランスが良いと言う事になるのでしょうか?
新聞報道 7/3「日本は反捕鯨の立場を情緒的な社会運動と酷評する」
7月3日には「日本は反捕鯨の立場を情緒的な社会運動(emotional crusader)と酷評する」と言うタイトルの記事が出ています。この記事も記者の名前が出ておらず、文中に日本のスポークスマンがAAPの記者に語ったと言うくだりがありますので、オーストラリアの記事の全面引用かと思われます。ちなみにこの記事には捕鯨船の銛で打たれたクジラが引きずられていると言う解説入りで、オーストラリアの税関が2008年に提供したとする写真が付けられています。
「オーストラリアやニュージーランドの反捕鯨の立場は(未開人への)文明化活動と道徳的社会運動(civilising mission and moral crusader)で、全く時代遅れのものである」「多様な文明社会と伝統を持つ世界の中で、国際法は他の文化より我々の文化の方がすぐれていると言う事を押し付けるための道具になり得ない」と日本は主張しました。
この後にはまた先週オーストラリアは「日本の捕鯨が科学調査の衣を着て継続されている商業捕鯨を覆い隠すもので、科学目的の捕鯨を認める国際捕鯨取締条約(ICRW)の違反だ。」と主張したと続きます。
しかしながらとして日本の代理人である鶴岡公二外務審議官の反論が続きます。「日本の調査は商業捕鯨が環境を破壊しないで持続可能(sustainable)である事を証明するための包括的な科学調査を実行している」「1982年に決議された商業捕鯨の一時停止(moratorium)自体がこの解除のために説得力のあるデータを要求している」
「日本はその長い歴史を通じて自然と調和して生きてきましたので、海の資源の利用を誤ることはけっしてありません。」「オーストラリアは他の国に自分たちの意思を押し付ける事は出来ないし、国際捕鯨委員会を捕鯨に反対する組織に変える事も出来ない」などなど。
最後のコメントはICRWが「鯨族の適当な保存を図って捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする条約」(国際捕鯨取締条約、前文)として発足した事を踏まえて述べられているものと思います。
新聞報道 7/9 「日本は条約の解釈を誤解している」
7月9日にはオーストラリアを支持し、日本の捕鯨計画に反対するために弁論したニュージーランドの法務長官のクリス フィンレイソンの主張が紹介されています。これも前述しました同じ写真と解説が入っています。
日本の条約への解釈が間違っているとして、次の様に述べています。「日本は国際捕鯨取締条約を産業界のカルテルとして扱っているが、条約の目的は商業捕鯨を保護する事ではなく、クジラ資源の保護と発展(development)のためにある」「科学調査への特別許可を与えている条約の8か条は関係国に白紙委任状を与えているものではなく、これを実行する時には条約の範囲内で行われなければならないとする義務がある。」すなわち「特別許可を発行する関係国は殺さなければならないクジラの数を最小限に抑えると言う客観的な責務がある」(政府の弁護士、ペネロペ リディングス)
この後の日程としてオーストラリアと日本がそれぞれ二日間の最終弁論する事になっていました。
新聞報道 7/10 「日本の捕鯨問題に対する弁護は無礼である」
オーストラリアの最終弁論を受けて、7月10日に「日本の捕鯨問題に対する弁護は無礼である」とのタイトルの記事が出ています。「日本の主張は真実に基づかず、無礼である」「国際司法裁判所における討論に関係なく、根拠のない申し立てをまくしたてている」これはオーストラリアの主張が情緒的であると指摘した日本の議論を指しています。これを踏まえて「これがオーストラリアの法的議論に対する日本の反応の特徴である事自体、日本の申し立てが薄弱なものである事を物語っている。」
これに続く日本の最終弁論の記事は見つけることが出来ませんでした。
結び
全部ではありませんが以上が新聞上に出ていた主な「議論」かと思われます。さて普通のニュージーランド人が上記で述べた新聞を読み流す中でどんな印象を受け止めたのかは気になるところです。
私が感じたのは総論ばかりの紹介で議論がかみ合っていないのではと言う事です。例えばオーストラリアが「誰もその調査の目的を知らず、したがってその結果を評価するのは不可能だ。」と述べた時に鶴岡審議官が述べた「850頭のミンククジラの捕獲は、鯨族の数を脅かすことがないことは、豪州の専門家自らが先週確認したとおりです。」を対比させたり、「日本の捕鯨が科学調査の衣を着て継続されている商業捕鯨」と言う意見に対して「商業捕鯨を再開しようとしていることを、日本は恥じるべきでしょうか。商業捕鯨が、持続可能な方法で、また、苦痛を与えない殺害に関する合意に従って行われる限り、それは海洋生物資源の正当な利用です。」と言った意見を対比させる事で争点がいくらかでもかみ合い、読者の理解が深まっていくのではないかと考える次第です。
国と国の代表が争う国際連合の国際司法裁判所レベルとなると捕鯨問題に関してどの様な議論が交わされるかにはとても興味がありました。しかしながらこの新聞上で述べられている議論は少なくとも10年以上前から(もしかすればもっと前から?)交わされてきた議論とほとんど同じではないかと少々がっかりしました。すなわち相手国の発言を踏まえて議論を進めていく面が希薄で、自国の意見を繰り返すと言った印象を持ちました。これはそれぞれの国民が相手国の意見に触れる機会があまりない、すなわち報道におけるバランスに欠けるところからきているのかなと考えています。
これらの記事を見た私のニュージーランド人の親友が国際司法裁判所での一連のやり取りの記事を見て次の様なメールを送ってきました。「とても興味深いやり取りが捕鯨委員会(これはもちろん間違いです)で今なされている。日本はとうとうは発言したね。でも捕鯨問題は情緒的な問題であるから相手方が説得されるとは思わないが。」
ちょっと冷めた意見ではありますが、今回日本側の意見が新聞に出たのは裁判の報道でしたから、全く一方だけの主張を流すと言う事はさすがのオーストラリア(ニュージーランド?)でも出来なかっただけの話しかと理解しています。
ご存知の方も多いと思いますが、日本はこの問題に決して初めて発言した訳ではありません。私が数年前にお会いした鯨類研究所の広報担当の方は「なぜ日本の主張が世界に伝わらないのか」と悩んでおられましたが、日本の主張が報道されないだけでなく、反対側の主張だけが何度も繰り返し報道させるところにこの問題の本質が一つある様に思います。いわゆるメディア戦争が捕鯨問題の一つの鍵かと考えますが、また本題からそれてしまいますので今回は深入りしません。
ちなみに16人の裁判官の内一人が日本人(小和田亘判事)で、10人は反捕鯨国からの判事です。裁判官も人間ですから繰り返し自国で流されてきた報道の背景が反映される判断になるか、裁判の原則である裁判所に提出された意見や証拠だけに基づき、法的な解釈と判断のみで結論が導かれるかは興味深くかつ誰にも分からないところです。私は後者ではないかと楽観しています。
この司法判断は日本に対する評価や風当たりと言う意味で、ニュージーランドに住む我々や子供たちに直接、間接の影響を与える可能性は十分に在ると考えます。年末か来年早々にでも判決が出ると言われている裁判の行方を見守っていきましょう。
追伸:
日本の見解、鶴岡公二外務審議官の冒頭陳述はこちらで見る事が出来ます。
この原稿はオークランド日本人会会報2013年12/1月号に掲載したものです。