第1回 難民とは?
はじめまして、橋本直江(通称ハッチ)です。これから皆さんと一緒に「難民」について考えてみたいと思います。
「難民(Refugees)」と言うと皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?文字通り「難を逃れた民」なのですが、いろいろな定義があります。戦争や自然災害で居住地から追われ援助を求める人々は、紛れもなく難民です。最近のハイチの例でも明らかでした。また、ニュージーランドでは夫の暴力から逃れる女性たちのためにWomen’s Refugeが各地にありますが、彼女たちもまた難民です。これら広義の「難民」に対して、これからお話しするのは、自国の保護を受けらないために国際社会の保護が必要となる「条約難民」についてです。この言葉が使われるようになったのは第2次世界大戦後、1951年に国連で「難民の地位に関する条約」が採択されてからです。また、このときに難民問題を専門的に扱う、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が設立され、ただちにヨーロッパ全土に溢れ出た難民の保護に取り組みました。そして、1967年には前出の条約を補足する「難民の地位に関する議定書」が採択され、この二つを合わせて、「難民条約」と呼ぶようになりました。そこには難民の定義が以下のように書かれています。
「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員であること、または政治的意見を理由に迫害された、または迫害の恐れがある人で、自国の外におり、自国の保護を受けることができない、または迫害の恐れがあるために自国の保護を望まない人」
と言っても、これはどういう人のことを指すのでしょう?
これはフィクションですが、例えば、A国の国籍を持っているIさんが、OX教という宗教を信じているがために迫害を受け、密航してB国へ入り、庇護を求めたとしましょう。Iさんは自国Aの外にいます。迫害を受けた理由が宗教です。迫害の恐れがあるために、B国に在るA国大使館に保護を求めることはできません。
私たちの場合は、国外にいても何かあった時は自国の大使館が保護をしてくれます。しかし難民にはどこへも行くところがありません。自国の保護が得られないから難民になるわけで、その場合は国際社会が力を合わせて、迫害の恐れのある難民を守ってあげなくてはならないのです。難民条約はその国際的な取り決めです。現在条約を批准している国は全世界で147国、ニュージーランドは1960年、日本は先進国の中では遅れ1981年に条約に加入しましたが、アジアの中ではフィリピンに次いで2番目でした。この背景には日本が朝鮮半島の問題を懸念していたので難民の受け入れには慎重論をとっていたとも聞きましたが、きっかけとなったのはインドシナ難民滞留問題の深刻化と国際社会から責任分担の期待が高まったことでした。ちょうどそのころ、私が外務省外郭団体のNGO職員としてベトナムのボートピープルの定住支援に携わる機会を得たのは、日本が本格的な難民の定住受け入れ先として動き出した時だったからです。
難民条約を批准した国には、難民条約に規定された難民申請者・一時庇護を求める人の基本的人権の保障と、公正な難民認定を行うことが義務付けられます。従って、条約を批准しただけでなく、国内法の改正及び制度化に努めなくてはなりません。日本では従来の出入国管理法が改正され、難民認定法が加えられました。これらは法務省の管轄で行われています。これに対し、ニュージーランドでは難民認定が移民政策の一部に組み込まれ、労働省移民局難民認定課が一次審査を行ないます。
先ほどのIさんのケースにもどりますと、B国が条約を批准している場合は、B国が難民認定の審査を、批准していない場合はUNHCRが直接難民認定を行います。前者のように、B国の法律の下で難民と認定された場合は、IさんにはB国民と同等の権利が与えられ、恒久的な解決となる永住権またはそれに準ずる移民ステータスが与えられることとなります。しかし、B国が条約を批准していなく、しかもIさんの一次庇護を拒んだ場合はUNHCRが他国と話し合ってIさんの安全を確保するべく解決策をみつけます。
ここでは一人の難民申請者を例にとりましたが、テレビや新聞でよく報道される大量の難民流出の場合も、基本的に彼らが条約難民であるかないかの判断は上記の難民の定義を適用することに何ら変わりはありません。ただし、一人一人難民認定をすることはせず、難民流出の背景から判断してPrima Facie(事実上明らかな)の難民として対応するのです。これらの判断とその確認は当時国のほかにUNHCRに委ねることが多く、同事務所は庇護を求める難民を迫害の恐怖のある自国に送還することを禁ずるNon-Refoulementの基本原則が、当該国の条約批准状況に関わらず、順守されるよう監督しています。それは、難民条約以前に一次庇護を求めるという権利が世界人権宣言の第14条で保障されているからなのです。一時庇護を求める権利、一時庇護を受ける権利は人間の最も基本的な権利です。
第2回 UNHCR
今回は難民問題の国連専門機関であるUNHCRの役割についてお話したいと思います。
UNHCRと言いますと皆さんは何を思い浮かべますか?日本人として初めて女性の高等弁務官となられた緒方貞子氏は、8代目の高等弁務官として1990-2000の10年間務められました。 緒方さんの活躍で、日本では難民問題への関心が高まり、UNHCRが一般の人々にとって大変身近な存在になったと思います。また、日本政府も以前に増し積極的にUNHCRの支援をするようになり、民間の支援やNGOの活動も盛んになりました。その他、アンジェリーナ・ジョリー主演のBeyond Borders(邦題「愛は国境を越えて」)の映画や、NHKでも放映された「風に舞い上がるビニールシート」など、メディアを通じてのアピールも皆さんの記憶に残っているのではないでしょうか。
UNHCR(United Nations Office of High Commissioner for Refugees、国連高等難民弁務官事務所)は数ある国連の一専門機関です。1950年12月14日に設立され、1951年に採択された「難民の地位に関する条約」を基本に今日まで活動をしてきていますが、設立当初は主に第二次世界大戦後ヨーロッパ大陸全土に離散した民の保護にあたり、UNHCR自体の存続も暫定的なものでした。しかし、その後も圧政や内戦、国際紛争が後を絶たず、2009年にはUNHCRが条約上認める難民は全世界で1千万人以上にも上りました。この数字とは別に、470万人のパレスチナ難民がUNRWA(United Nations Relief and Works Agency for Palestinian Refugees)の下で援助を受けています。また、難民認定を申請中の一次庇護下にある難民約84万人、そして国内で避難民となったIDP(Internal Displaced Persons)2,600万人もUNHCRの援助対象となっており、これらのニーズに対応すべくUNHCRにはジュネーブの本部を含め、現在約6,600人の職員が110カ国で勤務しています。私は1985年からマレーシアを皮切りに、1998年までUNHCRで務めましたが、私のキャリアの中でも最も貴重な経験となった13年間でした。
それでは、UNHCRは実際に何をするのでしょう?その役割には三つの柱があります。
1.保護(Protection):一次庇護下における難民の基本的人権を守り、公正な難民認定を受けられるよう、援助します。UNHCRが直接介入できる分野で、一次庇護国政府に対する助言を行います。
2.援助(Assistance):難民の基本的なニーズを満たすために、一次庇護を与える国の政府や実際に援助にあたるNGOを通じて、難民が安全にそして尊厳を持って生きていけるよう、必要最低限の物資およびサービスを供給します。これには、食糧、水、衛生設備、医療、家、カウンセリング、初等教育などが含まれます。UNHCRはこれらの援助活動をコーディネートし、資金および技術援助を行いますが、一次庇護国政府の要請がなければ、介入することはできません。
3.恒久的解決(Durable Solutions):難民が難民であることを強いられなくなること、すなわち国際社会の保護を必要とせず、市民として国の保護を受けられることを意味します。その解決として次の三通りの方法があります。
(1) 自主帰還(Voluntary Repatriation):自国の状況が変わり、迫害の恐れがなくなったので、前居住地へ帰ること。ふるさとへの安全な帰還は最も望ましい形です。
(2) 一次庇護国での定住(Local Settlement):一次庇護で滞在する国で市民権を得て永住すること。多くの場合は隣国へ逃れるので、自然条件や文化が著しく違うことがなく、自然に地元社会に溶け込むことができます。ただし、地元との対立や摩擦が多い場合、このオプションは難しくなります。
(3) 第三国定住(Resettlement):上記の二つのオプションがなく、全く違う国へ定住すること。政治的介入が必要となり、UNHCRが個々のケースに応じて適正な斡旋を行います。家族が海外にいる場合は、家族再会の主旨にのっとり受け入れてもらうことが多く、またニュージーランドのように、予め定住受け入れ枠を定めている国への定住も可能です。日本はインドシナ難民に対し1981年に定住の門戸を開きましたが、インドシナ難民以外では現在まで家族再会以外の定住受け入れはほとんどありません。
私のUNHCRでの最初の仕事はResettlement Officer(定住担当官)でしたが、その時はマレーシアの孤島にある難民キャンプに実際に住み、キャンプにいる全ての家族をインタビューし、定住先を見つけました。ある家族は父親に前科があったため、どこの国にも受け入れてもらえず、8年もキャンプ生活を余儀なくされました。そのため、子どもたちはキャンプの外の世界を知らずに育ったのです。幸い私が勤務していた時期に、フランスが特赦で子供たちの受け入れを決め、その直後両親にも定住を許可し、
フランスへの定住が決定しました。一家が島を出た日の感動は一生忘れられません。彼らは8 年の間、希望を持ち続けていたのでしょうか?きっとそうに違いありません。
その後、私はスーダンでProgramme Officer として、大規模な援助プロジェクトに取り組みましたが、このときは毎日が難民の生死を分けていました。スーダンと言っても首都のカルツームから600 キロ離れたエリトリアとの国境に近い砂漠のど真ん中です。そこで見たのは、延々と続くキャンプ、テント、栄養失調の子供たち、ここへ安全な水と、食糧を供給するだけでも大変なことでした。水の専門家OXFAM や医療のMSF(国境なき医師団)など、欧米からのNGO がいくつも来て援助にあたっており、毎日のように援助をコーディネートするためのミーティングが開かれました。アフリカ大陸へ行きますと極端にアジア人の存在が少なくなり、私は当時スーダンで働いていた、たった一人の日本人女性であったと記憶しています。
その後、ジュネーブ本部での勤務を経て、バングラデッシュでフィールド・オフィサーとして難民の保護にあたりましたが、その時はおびただしい数の青いビニールシートの下で、難民が雤風をしのいでいました。
この青いビニールシートは、もともとUNHCR が緊急事態への対応策の中で非常に重要な位置を占めていました。これが大量に使われるようになったのは、1991 年のGulfCrisis のときからで、当時クルド族が難民として大量にトルコへ逃れてきたとき、難民のシェルターが間に合わずこのビニールシートを駆使した背景があります。UNHCREmergency Response Team ができたのもこのころで、全世界にに声をかけ、専門家のチームを72 時間以内で現地に向かわせることができるようなシステムを作りました。選ばれた多くは北ヨーロッパの専門家でした。また、ビニールシートも重要な緊急物資として、アムステルダムの倉庫にストックされることになりました。
「風に舞い上がるビニールシート」はまさにUNHCR のフィールドワークを象徴する題名です。ただ、アンジェリーナ・ジョリーの映画にも共通して言えますが、事実の描写は必ずしも正確ではありません。どちらも、UNHCR の職員の直接的なコミットを強調し、英雄扱いにしているような気がしますが、法的保護や外交的介入以外は、NGO や政府団体が直接的なオペレーションを行いうのであり、彼らこそがフィールドでの実践者なのです。UNHCR の役割はあくまでも官僚、アドミニストレーターであり、資金を募り、投入し、モニターそしてレポートしていく役割を担っています。UNHCR の仕事はこれからもますます多様になり、複雑化していくことでしょう。私は1991 年が大きな転換期だったと思います。緊急対策課の設立とともに、軍隊との協力関係も築きました。それまでは、人道援助と軍隊の活動は相反するものと考えられていましたが、もはや軍隊の協力なしには必要な物資も行きわたらない状況が多かったからです。同時に民間からの支援、NGOとのパートナーシップの強化、そして他の国連機関との協力体制を敷き、難民を出さない社会、難民を再び生み出さない社会の構築をビジョンに入れました。緒方さんはこれをPrevention(予防対策)と呼んでいました。なぜ難民が出るか、どこに問題があるのかをよく分析して、原因となるものを取り除くことが必要だと・・・。
果たして、難民を出さない社会を築くことができるでしょうか?いつの日か、UNHCRがもう必要でなくなる時が来るのであれば、それは最高の日となるでしょう。
第3回 難民認定
今回は、自国を追いやられた難民が一次庇護を求めて他国へたどりつき、どのように難民としての地位を得ることができるか、ニュージーランドの場合を例にしてお話したいと思います。
私自身1998年から3年間、ニュージーランド政府移民局の難民認定官として多くの難民をインタビューし、その個々のケースについて審査し、認定の判断をしてきました。私自身がニュージーランドに移住して初めての仕事で、UNHCRで長年の経験があったにもかかわらず、とても苦労したのを覚えています。それは、国際的取り決めである難民認定のガイドラインをもってしても、ニュージーランド特有の歴史的地理的背景や法制度の理解なくしては公正な審査と判断ができないため、新参者の私には越えなくてはならないハードルが山ほどあったのです。また、申請者の一人一人と向き合い、彼らが主張する事実を聞き、その人の一生に関わる判断をすることは精神的にも大変ハードでした。
苦労話はさておいて、まず難民認定に至るプロセスをご紹介しましょう。流れ図にしますと下記のようになります。
実際に例をあげて説明しましょう。飛行機でオークランド空港へ着いたAさんが、パスポート・コントロールで「自分は自国を逃れてきたので、ニュージーランドでの一次庇護と難民認定を求める」と言いますと、別室へ案内され、そこで難民申請書を渡されます。(注:難民申請は、いつでもどこでもできます)そして、必要であれば通訳を介して申請書に必要事項を記入し、署名したものを難民認定官が確認をしますと、難民認定申請書の受理となります。そして、その後数週間で難民認定官による個別面接に呼ばれます。面接は個々のケースによって違いますが、2時間から8時間、家族が多い場合は二日間にわたることがあります。申請者の生い立ち、自国で遭遇した問題、なぜ自国を逃れたか、どのようにニュージーランドへ辿り着いたかのいきさつまで細部にわたって質問され、それに答えなくてはなりません。面接後は担当官からの追加質問や証拠提出の要請を含んだインタビュー・レポートが送付されます。担当の難民認定官は、申請者から得た回答、証拠と様々な公の機関を通じて入手した情報をもとに、Aさんが国連で定めた条約難民の条件に当てはまるかどうかを審査し、認定をするかしないか判断します。
認定された場合は、認定難民としてニュージーランドでの永住権が与えられ、将来ニュージーランドの国民となる道が保障されます。認定されなかった場合は仮滞在許可が取り消され、自国へ帰らなくてはなりません。しかし、一次審査の結果の不服申し立てをしますとRefugee Status Appeal Authority (RSAA 難民の地位控訴委員会)が第二審として書類審査をし、控訴妥当と思うケースについては再度面接をし、審査します。第二審で認定の結果が出た場合は、永住権が得られ、認定されなかった場合は自国への帰還となります。それでも、さらに控訴する場合は法務大臣への控訴という形をとりますが、稀なので上の図式には加えませんでした。
移民局統計によると、ニュージーランドでは1997年7月から2010年1月31日の間に15,212件の難民申請を受理しており、そのうち2,971件が一審により難民認定を受けています。申請受理数は1998/99の年間2,647件がピークでした。ちょうど私が難民認定官になったころですが、悪徳移民コンサルタントに騙され、「就業ビザを取ってあげるから」と、何もわからないまま難民申請に至るケースが多発していました。当時多かったのは、タイ、中国、韓国から来た申請者でしたが、日本人の被害者も何人か出たほどです。その後移民局が取り締まりを行い、かなりのエージェントが業界から姿を消しました。次に申請数の大幅な減少が見られたのは2001年9/11のテロ事件の後です。各国の航空会社、空港での旅券および査証審査が厳しくなり、以前に比べてニュージーランドへの渡航が一段と難しくなりました。こうしたテロ防止措置としてとられた規制に対し、国連は、純粋に国外に保護を求める難民が避難できなくなることに懸念を示しましたが、現実にテロから国民を守る主権国の権利が優先されることは明らかでした。その後も申請数は減少を続け、2008/09年には240件にまで下がっています。これまでに難民申請をした人の国籍は130国以上にも上りますが、難民として認定された国籍の上位5カ国は、イラク、中国、スリランカ、イラン、アフガニスタンの順で、第一審で認定された総数の約70%を占めています。
最近のニュージーランドにおける難民認定申請の認定率は、第一審で30%(2008/09年度)、第二審で18.6%(1991年からの平均)となっています。
ここで少し日本との比較をしてみましょう。
難民認定のプロセスそのものは、実は日本でもほぼ同じです。1981年に条約批准後一応難民認定の制度そのものは整えられ、法務省の統計によりますと、2008年までに計7,297件の申請書が受理されています。そのうち約7%である508人が難民として認定されました。2008年だけをとってみると、前年比2倍近い1,599件の申請があり、うち65件が認定されています。申請者のうち約60%がミャンマー国籍、続いてトルコ(10%)、スリランカ(5.6%)となっています。
日本は難民認定を制度化してから実質的な運営をする過程で様々な問題を改善していかなければなりませんでした。例えば、難民認定制度の存在そのものが知られていず、上陸後60日以内に難民申請をしなければ申請する権利を失う・・・などの制約がかつて多く存在しました。また、ニュージーランドでは申請者が弁護士をつけたい場合、費用を国が貸与してくれる制度がありますが、日本にはありません。難民認定申請中の就労の権利の保障もニュージーランドのように当初から徹底したものではありませんでした。このように難民認定制度は国際基準に沿って整えたものの、申請者に対する処遇の在り方に大きな違いがありました。
難民認定をするのはなぜなのでしょう?それは、彼らが迫害をうけ、自国の保護を受けられないがために、国際社会の保護が必要となるからです。ニュージーランドへ上陸した難民が、ニュージーランドの法制度のもとで条約難民として認定されたその日から、ニュージーランドの政府は国際社会の一員として、また本条約の批准国として、その難民を自国の国民と同じように保護するのです。それは、日本の場合も同じです。
「国の保護」と言えば、ひとつの忘れられないケースがあります。ガーナの女性をMt Edenの刑務所でインタビューしたときのことです。西アフリカによく見られる部族の慣習であるFGM(女性器切除)の恐怖を逃れ、警察に助けを求めることができず国を脱出、南アフリカ共和国経由、マレーシアから乗り継いでニュージーランドへ来ました。当時APEC直前で空港の警備も厳しく、肌の黒い人(=アフリカ人)は必ずと言ってよいほど質問を受け、彼女の場合は南アフリカで手に入れたパスポートを持ち、難民申請をしたいと言ったばかりに国家の安全を脅かす分子とみなされ刑務所に入れられてしまいました。ちなみに南アフリカのパスポートをもっていると、特定のビザなくしてニュージーランドへ入国することができる、ビザ・フリー・ステータスを享受することができます。UNHCRのガイドラインでは、特別な理由がない限り難民を刑務所に入れてはいけないことになっていますが、タイミングが悪かったのでしょう。一日の大半を彼女と刑務所ですごし、インタビューをしました。結果は、難民とは認定しませんでしたが、刑務所から出してもらうことはできました。なぜ難民と認定できなかったか?ひとことで言いますと、彼女が自国の保護を求める努力をしなかったために、彼女の国、ガーナの政府から保護を受けられないことを証明できなかったからです。私の方でも調査をしたところ、ガーナの国内法でFGMを禁止していることがわかりました。また、ガーナにはこの問題に取り組んで女性の解放と保護にあたっている民間団体が数多く存在します。自分の村で殺されるほどの恐怖をもっていても、別の土地へ行って住むことも可能性として残ったでしょう。などと、推論も含めながら結論を出していくのです。
でも、もし、難民が嘘をついたら?
よくある話です。しかし、彼らが話す事実は必ず検証されるのです。そして、嘘が通って難民認定されたケースでも、その後真実がわかった場合、条約難民の地位をはく奪されることになります。現在、移民局では偽りのクレームで認定難民としての地位、及び永住権を獲得したケースの告発を積極的に行っています。
ニュージーランドにおける難民認定の在り方を日本と比較すると、それぞれの国の置かれたポジションがわかると思います。単に数字を比較して、いかに日本は難民に対して冷たい国かと批判するのは単純すぎるでしょう。日本はこれまでも時間をかけながら、難民認定制度と関連法を改善してきました。これからは、それに伴う難民に対する処遇のレベルアップを目指していくことと信じます。それには、一般の人々の難民に対する理解が深まることが必要です。難民の彼らのライフ・ストーリーそのものが、我々を啓蒙してくれるのです。
(西アフリカの女性、本文とは関係がありません)
第4回 第三国定住
今回は難民の第三国定住についてお話したいと思います。「第三国」の意味は、自分の祖国(第一国)でもなく、現在庇護されている国(第二国)でもない全く別の国(第三国)で市民権を得るということです。
本稿第二回「UNHCRの役割」で書きましたように、難民問題の恒久的解決、すなわち難民が再び国の保護を得、難民でなくなるためには3つの方法があります。(1)自国への帰還、(2)近隣の一次庇護国での定住、そして(3)第三国への定住ですが、第三国への定住は生活環境や文化が全く違う国で新たな人生を迎えるという点で、難民にとっては最もハードルの高い解決法と考えられてきました。しかし、諸事情で第三国への定住しか解決の道がないとされる難民の数は年々増え、現在世界で80万人を超えると言われていますが、現実には各国からの受け入れ数が足りず、このうち定住できるのは10人に一人しかいません。(UNHCR Projected Global Resettlement Needs 2011, June 2010)
ニュージーランドは、世界でも数少ない難民の定住枠を提供している国の一つです。もともと自国の移民政策の下で、第2次世界大戦後、おもにヨーロッパから多くの戦争難民を受け入れてきました。その後1987年には、UNHCRが認める難民を世界各地から毎年一定数を受け入れることを決定、1999年以降は一貫して年750人の定住受け入れを実践し、2008年までの10年間で総数7,843人の難民がUNHCRを通じてニュージーランドへ定住しました。これに加え、ニュージーランドでは、入国後個別に難民申請を行い、認定された結果永住権を得るケースがあります。このルートは本稿で述べる第三国定住は異なり、ニュージーランド移民局が難民の対応に、難民認定課(Refugee Status Branch)と難民定住課 (Refugee Quota Branch) の二本立てで機能しているのもそのためです。前回はRefugee Statusがニュージーランド国内で行う難民認定の話でしたが、今日お話しするのは後者、Refugee Quota Branchが扱う海外からの定住難民についてです。
他国との比較をしてみると、ニュージーランドがいかに難民受け入れの先進国かわかります。
現在世界で24カ国(2008年以前は12カ国)がUNHCRに対して難民の定住受け入れに同意していますが、その受け入れ数や条件は様々です。また、ニュージーランド政府が定めた年間750人の定住受け入れ枠の中には、Women at Risk(虐待を受けた女性や、シングル・マザー、未亡人等、特に保護が必要とされる女性)の優先枠75人、Medical/Disabled Case(病気または障害を持った難民)の優先枠75人(この中にはHIVエイズの患者20人までも含む)また、緊急時の特別優先枠もわずかですが確保されています。このように女性や、病人及び障害者に対し特別な枠を保障しているのは、ニュージーランド、カナダ、スイス、スカンジナビア諸国だけとなっています。
|
定住受け入れ国 |
2009年受け入れ数 |
1 |
アメリカ |
62,011 |
2 |
オーストラリア |
6,720 |
3 |
カナダ |
6,582 |
4 |
ドイツ |
2,064 |
5 |
スウェーデン |
1,880 |
6 |
ノルウェイ |
1,367 |
7 |
イギリス |
969 |
8 |
フィンランド |
710 |
9 |
ニュージーランド |
675 |
10 |
デンマーク |
488 |
左の表を見ると、どの国が難民の定住受け入れ先となっているかがわかります。
(注)UNHCR Projected Global Resettlement Needs 2011, June 2010, page 55の資料をもとに作成。
この表はUNHCRを通じ、2009年に一次庇護国より各国に定住した実数。難民が独自で入国し第三国で難民認定された数字は含まれていない。
2009年には全世界で84,657人の難民が一次庇護国から第三国へ発ちました。世界の難民定住受け入れ国、ニュージーランドでは国民一人当たりの難民受け入れが世界で最も高い国の一つで、その内容も人道主義にたった非常に寛大なものです。
では、ニュージーランドへ定住してきた難民はどこから来たのでしょうか?下の表は1999年から2008年の間に定住した難民の国籍を表しています。
国名 |
人数 |
アフガニスタン |
1,319 |
ミャンマー |
1,278 |
イラク |
991 |
ソマリア |
634 |
エチオピア |
476 |
イラン |
386 |
前ユーゴスラビア |
380 |
スーダン |
340 |
エリトリア |
274 |
その他、無国籍 |
1,765 |
合計(1999-2008年) |
7,843 |
(Department of Labour, “Quota Refugee in New Zealand:Approval and Movements 1999-2008の資料をもとに作成)
これらの難民の殆どは世界各地の難民キャンプから定住先のニュージーランドへ来るのですが、どのようなプロセスを経るか、下の流れ図を参考にして下さい。
第三国への定住は難民のグループを対象に、政府、NGO、地域の住民が一体となって、自立への支援とアフターケアーを行います。ニュージーランドはその点、福祉国家の伝統があるせいでしょうか、ボランティアの団体が多くあり、英語の家庭教師、中古家具の無料提供、メンタル・ヘルスのカウンセリングなど、ネットワークが発達しています。また、既に在NZ歴が長い元難民のコミュニティー・サポートも、新着難民にとっては心強い味方です。
ここで、日本の状況をご紹介しましょう。日本では、1975年のベトナム戦争終結後、ボート・ピープルの流出が増加し、当初日本は到着難民の一時的な滞在のみを認めていました。しかし、日本、及び近隣の東南アジア諸国に滞留する難民が増えたことで、1978年の閣議でベトナム難民の日本定住を認める方針を決定しました。さらに、ラオス、カンボジア難民への対象の拡大など条件が順次緩和され、1980年からは既に定住したインドシナ難民の家族再会を認めるようになりました。同時に外務省はインドシナ難民の定住促進のために、「アジア教育福祉財団」を設立し、難民の収容、日本語教育、職業斡旋など自活に向けての支援をしました。私はこの組織に1983年から1985年まで勤めましたが、当時はまだ日本に定住したくないベトナム難民が殆どでした。皆、アメリカやカナダ、オーストラリアに行きたいと粘っていましたが、望みがかなったケースはほんの僅か、最後は「仕方がないので日本に定住しよう。ベトナムへ帰るよりはましだ。」という理由で、定住申請をしていたものでした。彼らは日本で、長い場合は10年近く、宗教法人が運営する難民の施設でチャンスを待ち、なかなか政府の運営する定住促進センターには入ろうとしなかったのです。日本に無理やり定住させられると考えていたからです。しかしその後、日本に定住した難民の中に立派に仕事をし、家族生活を営んでいる成功例が増え、家族再会を目的に合法出国でインドシナの国々から日本に移り住む人の数も増えました。日本政府の統計ではこの受け入れ制度が終結した2005年までの間に、合計11,319人が定住しましたが、そのうち2,669人は合法出国者で、この数字については、厳密な意味で難民の定住とは区別した方がよいと思います。(注:ニュージーランドの場合、家族再会でUNHCRを通じて難民キャンプから定住してきた者については、難民として定住枠内で対処するが、合法出国の場合は通常の移民の家族再会と同じ扱いとなる。)
日本の難民定住受け入れ政策は、人道上の国際協力というよりは、日本周辺諸国への配慮、またアジア地域の安定化を目的としてきました。しかし、UNHCRからは、難民問題に関する負担を国際社会において適正に分担するためにも日本の定住受け入れを増やしてほしいとの働きかけがありました。これに応える形で2008年の閣議了解において、2010年より3年にわたり、1年につき30人の難民受け入れをパイロットケースとして行うことにしました。対象となるのはタイの難民キャンプに滞在するミャンマーからの難民です。前回もご紹介した通り、日本の認定難民も圧倒的にミャンマーからの難民が多い現実に合致しています。
これを見てもわかるように、ニュージーランドのグローバルな難民定住政策と日本の政策とではその内容、性質が大きく異なります。何故なのでしょうか? 私の個人的な意見ですが、それは移民国家として成長してきたニュージーランドでは、外部から入って来る様々なものを受け入れる土壌が長い年月をかけ培われたからだと思います。先住民のマオリ族も、キャプテンクック以来入植したイギリス人も、皆移民でした。その後ヨーロッパだけでなく、全大陸から移民が到着し現在のニュージーランドがあります。日本は外国人を受け入れる制度が極端に遅れています。最近やっと、在日外国人のためのサービスが完備されてきましたが、日本国内での日常レベルでの国際化は遅れています。外国人が差別されることなく、住居を設け、仕事をし、日本人と同じように子どもを育てることができる社会を築かずして、難民の受け入れなどは軽々しくしてはいけないのかもしれません。しかし、ニュージーランドでも見られたように、難民を遠方から受け入れることにより、国民の意識が目覚め、内での国際化が進むこともあります。日本も思い切って、定住受け入れの対象となる難民をグローバルに求めることを提案したいと思います。これからの、日本の成長のためにも、そして、真の国際化に向けて、多くの人に「日本に住みたい」と言われるような国になってほしいと思います。難民先進国のニュージーランドが、日本にアドバイスできることもたくさんあるのではないでしょうか?
パキスタンに滞在するアフガン難民の少年たち
(本文とは関係ありません)
最終回 Wani の場合
最終回は、コンゴから難民としてニュージーランドへ来たWani君の体験についてお話したいと思います。
私とWani君の出会いは、娘のソフィーを通じてでした。大学のフランス語のクラスで隣に座ったのがきっかけで友達になった二人・・・。ある日、彼の体験談「Wani’s Journey」が大学の機関紙に載ったことを、ソフィーが誇らしげに教えてくれたのです。これを読んで感銘を受けた私は、「是非このストーリーを日本人会に紹介したしたい」とWani君に相談したところ、快く許可してくれ、更には私のインタビューにまで応じてくれました。本稿は、Wani’s Journey、インタビュー、そして国連の資料をもとにして書いたものです。
Wani Fabrice Toaishara - 皆からはワニと呼ばれています。(片仮名にしてしまうと、あの恐ろしい「ワニ」を想像してしまいますが、彼は大変なジェントルマンです。)コンゴのBukavuで1990年長男として生まれました。幼少時代は両親と何の不自由もなく幸せな日々を送ったということです。
ご存じのようにコンゴは大小と二つあり、Waniの祖国は旧ザイールのコンゴ民主共和国(Democratic Republic of Congo)です。左の地図をご覧になってもお分かりの通り、Bukavu(ブカブ)はルワンダ、ブルンディに隣接した国境の町です。この地域の政情は1994年のルワンダの大虐殺を境に大きく変わりました。
ご存じの方も多いとは思いますが、ここで1994年のルワンダの大虐殺について簡単に説明したいと思います。この事件は1994年4月から6月にかけて100日間の間におよそ80万人が虐殺された前代未聞の出来事でした。1994年4月6日、当時ルワンダ大統領でHutu族のJuvenal Habyarimanaの飛行機が撃ち落とされ、大統領が死亡したことを皮切りに、多数派のHutu族がTutsi族の根絶を図り、全国的に殺害行為を広めたのです。被害者のほとんどはTutsiとHutuの穏健派でした。しかし、隣国ウガンダで力を蓄えていたTutsi率いるルワンダ民族戦線(RPF)が同年7月首都Kigaliを占領し、停戦となりました。ルワンダでの内戦は大量の難民を生み出し、隣国に多大な影響を与えました。
Waniの家族が住むBukavuはその最も大きな被害を受けた地域でした。ルワンダやブルンディからの難民で町が膨れ上がっただけでなく、一般市民に加え、糾弾を恐れた加害者である政府や軍部の関係者が逃れてきたことは、この地域に政治的不安要因をもたらしました。逃れた隣国を拠点にして反政府分子のグループが新たに生まれ、ルワンダ政府や軍隊の介入も後を絶ちませんでした。ルワンダの国内での停戦は近隣諸国での政治・部族闘争をさらに激化させたのです。
Waniは1994年から2年ほど、Bible Collegeで教鞭をとっていた父親と共にケニヤに住んでいましたが、1996年に戻ったBukavuは、銃をもった反乱軍がはびこり、敵あるいは敵を支援するとみなされた分子を直ちに殺外するという無法状態となっていました。Waniの親戚や知り合いも殺され、父親もターゲットにされていることが分かりました。Waniの家族は難を逃れ、Bukavuから遠く離れた親戚の家に身を隠したのです。
地雷が埋められていて車では通れない道を、何日もかけて歩きました。父親は人質にとられ、旅の途中で母親とも離れ離れになりました。当時6歳のWaniはおばさんと一緒に逃げたそうですが、その時初めて「自分たちは全てを失った」と感じたそうです。Waniのグループはその後、ケニアに逃れました。UNHCRが認める条約上の難民となったのはその時です。3年の月日を難民としてケニアで過ごし、その間両親とも奇跡的に再会でき、先にニュージーランドで難民として受け入れられていた父親の兄弟のスポンサーで、Wani一家もニュージーランドの年間定住枠750人の中で難民として受け入れられました。
ケニアからいくつもの飛行機を乗り継ぎ、やっと辿り着いたニュージーランド、1999年のことでした。定住枠で入国した難民はManagareにある難民センターで6週間のオリエンテーションを受けることが義務付けられています。彼らにとっては希望に満ちた新しい国でのスタートとなる一方、新たな試練も待ち受けていました。Wani君は当時のことを振り返ってこう語ります。「Mangareセンターでは屈辱的な思いをした。僕たちのことを野蛮人とでも思ったのだろうか?ナイフとフォークの使い方、トイレの使い方など、あたかも僕たちが何も知らないように教える。センターの職員はアフリカのことなどまるで知らないようだった。当時センターにいた難民は、ほとんどがミャンマーからの難民。僕たちのほかに、肌の黒いアフリカ人は一組だけ。南スーダンの出身者だった。彼らの肌の色は光るように黒い。皆、彼らの体に触れると、あわてて手を洗っていた。そんな光景を見るのがすごく辛かった。」
Wani君一家が入所した1999年は、ニュージーランドが定住枠でアフリカ人を受け入れた初期のころに当たります。2008年までに受け入れられたアフリカ国籍の難民の合計が全体の20%そこそこですから、Wani君がセンターにいたときは確かに数少ないアフリカ人の一人であったことでしょう。6週間のオリエンテーションが終わって家を探すときも、「同じ難民なのにどうしてこうも格差があるのか・・・」と思わずにいられない経験をしたそうです。「アフリカ人は困る。」「黒人はお断り」とあからさまに借家を断られることも少なくありませんでした。Wani の家族はハミルトン市に家を見つけ、最初のホームとした後、オークランドに移り、Waniはそこで高校時代を過ごしました。その間、家計を助けるために、高校生の彼は週末19時間のアルバイトをし、3人の弟妹たちの面倒も見たそうです。現在オークランド大学で都市計画を学んでいる彼は、辛かった思い出話を淡々と、そしてにこやかに話してくれました。「大好きなバスケットボールがあったからね!」と。
「難民にとって暖かい国、理解のあるニュージーランド」そう誇りに感じていた私に、Wani君のコメントは大切なことを思い出させてくれました。それは、「人間としての尊大」を取り戻すこと、保つことの大切さ、そして難しさです。ニュージーランドは確かに世界に誇れる難民政策を持っています。また、一般的にニュージーランドの人々は寛大で親切・・というのも本当だと思います。しかし、いくら器がよくても、真の意味で彼らを仲間として受け入れているのかどうか・・・まだまだ我々には残されている課題がたくさんあるのではないでしょうか。
インタビューの最後に「ニュージーランドの難民受け入れを向上させるためには何が必要だと思いますか?」と質問すると、「学校でもっと世界のことを教えることだと思う。僕はこちらの高校へ行ったけれども、社会科や歴史・地理で教えていることが本当に限られている。ニュージーランドの人はコンゴがどこにあるかも、その存在するも知らない。無知は偏見を呼ぶ、そして争いを起こす。だから若い世代にもっと世界のことを教えるべき。それが長期的にはより良い社会を作り出す。」と提言してくれました。
彼の言葉は、ニュージーランドだけでなく全ての国に当てはまることだと思います。世界が小さくなった今日、また世界中から人が集まっているニュージーランドにおいては特に、隣人を知ることはまさに世界を知ることにつながるのではないでしょうか。
今まで5回にわたって「難民について考える」のテーマで拙い文を書いてきました。毎回何らかのリサーチをしてきましたが、そのたびに思ったことは「戦争、貧困、環境、人権・・・難民問題はあらゆる社会問題が複合されたもの」ということです。 以前緒方貞子氏が語った言葉の中に、「難民を出さない社会を作るためには、その根源となる理由を排除していかなくてはならない。それには国際協力を以て、局所的でなく周辺諸国を含めた地域的アプローチが必要だ。」大変難しく聞こえますが、これは国際レベルでの協力を求めたものでした。では、個人レベルでは何ができるのでしょう?私は、難民問題とは「Humanity」の問題だと思っています。隣人として、同じ人間同士が理解しあい、彼らが尊厳をもって新しい社会の一員として生きていくお手伝いができるのであれば、私たちにもできることはたくさんあります。そのためには、Wani君が提案してくれたように、もっともっと我々も世界のことを学び、理解を深めていきたいと思います。そして、難民が「難民」と感じることなく生きていけるとき、その時こそ彼らの本当の「解放」となることでしょう。
私は今回Wani君に会い、とても勇気づけられました。大学のキャンパスを颯爽と歩く彼は、紛れもなくKiwiの大学生、ニュージーランドの一市民。おそらく彼にとって、「難民」というステータスは全く過去のものとなったことでしょう。法律、建築、都市計画、たくさんのことを学びたい・・・と抱負を語るWani君。そして将来はコンゴの孤児院の仕事に関わるお父さんを助けたいという希望も持っています。バスケットボールと両立させて、彼が自分の夢を実現させることを願ってやみません。
本稿を書きながら、様々なことを考えさせられ、また勉強させていただくことができました。また、読者の方から有難いコメントをいただきました。このような機会を与えて下さった日本人会に心から感謝しております。ありがとうございました。
最後に、Wani君の素敵な笑顔で本稿を締めくくりたいと思います。ワニ、ありがとう! 皆さんも応援して下さいね!