何の手違いか、クライストチャーチのリンカーン大学からご招待状を頂いた。10月20日に同大学内にて開かれるドクター川瀬勇(かわせ、いさむ)氏のプレークの除幕式が行われるというのである。
川瀬勇氏は、日本人で初めてのニュージーランド留学生で且つQSO(ザ、クィーンズ、サービス、オーダー)という上級勲章を授与された草地学者である。
何気にこのことを広報の西村さんにお伝えしたところ、「ニュージーランドに住む日本人は、知っておいてよい事と思うので是非レポートしなさい」といわれてしまった。ということで、今回は、ドクター川瀬勇氏についてレポートいたします。かなり長めの “Daisuke”流レポートになってしまいましたが、よろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
川瀬氏がカンタベリー農科大学(現、リンカーン大学)に日本人で初めてのニュージーランド留学生として入学したのは1931年10月下旬23歳のことである。約1ヶ月の航海を経てウエリントンに到着した。
彼の生まれは兵庫県西宮で家は代々銀行を経営する一族だった。彼の青春時代は大変と裕福且つ恵まれたもので、幼少のころからキリスト教に帰依し、学生時代は慶応義塾大学の学友たちと野球三昧の青春を謳歌していたという、実に何不自由のない青年時代だった。
そんな彼が当時唯一恐れていたことがあった。それは、父から、卒業後は、父の経営する銀行を継ぐようにとかねがね言われていることだった。明るさとユーモラスなところが持ち味である一方でキリスト信者として生涯、酒やタバコはたしなまなかったほどまじめな面をもち且つ青年時代は少々潔癖性すぎるほどの性格だった彼にとって、銀行員としての当時の父のしていることは、「金勘定に従事し、客を接待しては芸者遊びをするだけの毎日」にしか映らなかった。「自分は、サラリーマンにはむいてませんな」彼はそう思っていた。が当時は今と違い、親の命令は絶対的なものだっため、どのように切り抜くべきか、彼は悩みに悩みぬいていた。
兎にも角にも、父の命令から逃れるためには遠く離れたところにいく以外に道はないのではないか。そこで彼は海外留学を思いたった。そして綿密に調査を行い、一通りの準備がととのったある日、思い切って父に打ち明けた。「海外留学にださせてもらえんやろか」そう打ち明けられ時、父はさすがに面食らった様子だった。当時日本においてそれこそ海外留学など一般的には考えも及ばないことだったため父の驚きも並々のものではなかったのだろう。しかし綿密に調査を行った息子の用意周到な説明を聞いていくうちに、「うちの長男、なかなか面白いことをやりよる」突然大声でそう言い出すや、川瀬氏の海外留学はすんなり承諾された。この父、川瀬氏に負けず劣らずなかなかの人物と察せられる。かくいう経由で、川瀬氏の海外留学が実現した。留学先は幼少のころからあこがれていた牧場の溢れるニュージーランドだった。
ニュージーランドに到着した年、日中間で満州事変がおきた。関東軍(大日本帝国陸軍)が瞬時にして中国満州一帯を占領したのである。その事は、当時中国市場に強い関心をもつアメリカを中心とした西側諸国からも日本側の単独的行動が非難の的となった。ニュージーランドに於いても当時日本に対する感情は悪化していた。川瀬氏自身も、日本からの郵便書留を受け取りに郵便局に出かけた際、日本人であることを理由に受け取りを拒否されたりしていた。しかし、そういう環境に取り巻かれながらも、彼はめげずにいた。
「郵便物がほしければ多額の金を払え」といいだす。そこで彼は何食わぬ顔をして、「中身をみせてください」と尋ね、その場で、中身を確認するや「このような手紙は受け取れません、本国に送り返してほしいです」 と言って高額を払うことなく内容のみを把握した。
万事がこのようなやり方で彼は乗り越えていった。うまれつきユニークで明るい性格で、且つキリスト教徒の教えが彼がニュージーランド生活に打ち解けてゆくにあたって大いに役立った。学業はもちろん、市民のオーケストラなどにも積極的に参加するなど、クライストチャーチでの留学生活を実に生き生きと彼は謳歌していくのだった。
そして、あっという間に2年の月日が過ぎ、1933年12月、25歳。カンタベリー農科大学を卒業する日を向かえた。卒業にあたり当時の学長から、「君は、おそらく日本人として、はじめて草地農学を勉強した者であろう。願わくば、草地農業の専門家として日本の草地発展のために尽くす人生を歩んでほしい」というお言葉をいただいた。その学長の言葉を彼は守った。
帰国後、牧草農業研究所を兵庫県西宮市に設立、牧場の経営と、牧草の研究両方に没頭した。彼の理想は、この日本の野山を緑の牧草で埋め尽くし、そこに牧場を運営し、ミルクやバターやチーズなどが当たり前のように毎日一般の食卓にのぼれるようになることだった。当時ミルクやバターなどは一部の階級の嗜好品であり、且つ病気でもしなければとても口にすることもできなかった。けれども、当時日本の農家のほとんどは水田が中心だったため、彼の研究をまともに耳を傾けてくれる人は殆ど稀であった。逆に、「外国かぶれの青二才」などと陰口をたたかれるほど、帰国後の彼の草地の研究に対する風当たりは厳しかった。しかしそういう逆行にもめげず、彼は研究に没頭し次々に草地に関する専門書を発表してくのだった。
彼の研究は常に現場の農家の視線に立つものだった。専門的な内容はさておき、カンタベリー農家大学で学んだ知識を単にごり押しするのではなく、日本の牧草に置き換えて、現場の農家の人々と足並みを揃え一緒に牧場を営むことで得た成果を論文にまとめていった。そして「一部の者のみが独占した形で利益を受理するというのではなく、ごく普通のサイズの牧草地を持つ農家がごく普通に酪農を継続的に営むことのできるための研究」に終始していた。そういう姿勢が、ひいては神様からの恵み、大地への感謝を実感できるというキリスト教の教えにつながっていた。
1936年11月、川瀬氏32歳。高橋はまさんと結婚。翌々年、1938年、長男、巍(たかし)さん誕生。次いで、1940年、長女、ショウ子さん誕生。公私共に充実した彼自身がまるで生まれたての牧草のような人生の春だった。
そんな彼の生活が完全に中断されるほどの一大事が起きた。第2次世界大戦である。日本空軍がハワイのオアフ島ホノルルを攻撃したのだ。その知らせが彼に入ったのは1941年12月8日、午前5時のことである。彼(だけでなく、当時の日本国民全員が)非常に驚き、不安感につつまれた。彼は、思いつくことなどを親戚や知人に連絡を入れ、いろいろと相談したり注意を促したが彼自身もこれから先の検討が全くつかなかった。
一段落し、彼は再びベッドに横たわった。家の中は普段と変わらぬ静けさである。窓の明かりが徐々に家の中を照らし始める。蛍光灯がほのかに揺れている。ふと、留学時代、お世話になったニュージーランドの人たちや同級生たちの顔が頭に浮かんできた。彼らは今どうしているだろう。「どうか、日本とニュージーランドが戦争状態にならないよに、、、」彼は神に祈った。そうならないようにするために「自分は一体何ができるだろう」。いろいろなことが脳裏に浮かび上がった。が、これという名案が浮かんでくるわけではなかった。どこからか早朝の物売りの声が聞こえてくる。日本はいつもと何も変わらない朝をむかえているのだ。彼はいつまでも揺れる蛍光灯の明かりを見つめていた。その明かりは白みはじめた窓から刺す空の明かりに次第に包み込まれていった。
開戦から約1年がたった。日本軍は、マニラ、シンガポール、ジャワ島とどんどん上陸し、その目覚しい勝利の模様は毎日のように軍隊行進曲と共に放送されていた。がその一方、国内では食糧事情、特に米が深刻に悪化し、国民は飢えに耐え忍んでいた。そんな最中、東京の海軍省から上京の指令を受けた。司令官からニュージーランドに関する報告書を提出するように命じられたのだ。日本軍はいよいよニュージーランドへの侵略を計画しはじめたに違いない、彼は直感した。複雑な思いが彼の頭を横切った。
「結局は、日本軍がニュージーランドへ侵略をかけるための橋渡しを自分が行うことになるのか」そう思ったとき彼は一瞬自らの運命を呪った。がしかし、当時、日本において、ニュージーランドのことを知る者はおそらく自分をおいて他にはいない。であるならば、逆に、日本軍のニュージーランド侵略を阻止することができるのも自分なのかもしれない、彼はそう考え直した。
指令を受けてから約1ヶ月半ほどを費やしてニュージーランドの報告書を彼は書き終えた。報告書の内容は、ほとんどニュージーランドのありのままを記載したものとなった。彼はむしろニュージーランドのありのままを正確に伝えることが返って日本軍の侵略を阻止できる唯一の手段であると確信しはじめていた。日本とニュージーランドとではいたるところが異なる。気候や地理的状況、及び生活習慣と水準、人口密度など、それら全てを正確に述べれば日本軍はきっとニュージーランドへの侵略は無意味な行為であると判断するに違い、彼はそう確信していた。
提出後、大佐から呼び出され以下のような質問を直に受けた。まず、気候について尋ねられた。「ニュージーランドは台風はなく、常にそよ風が吹いています。クック海峡は東西に風が付近けるとおり道になっています」などと説明した。
ついで、マオリについて尋ねられた。これに関してはかなり執拗に質問された。「マオリは土地に対する想いが深く、ことに北島北東部で強いです。ニュージーランドほど先住民族との関係が良好な国は珍しいと思われます。マオリの生活水準は日本人より高いものの、教育水準は(一般的に)低い。又、わずかながら英国に対して反感も持っているように感じられます」。など答えた。
大佐は、「マオリ族に、日本と手をつないで英国に対抗すべきだと彼らに向けて説得することはできるか?」と尋ねてきた。が、彼は「それは全く意味のない行為」であると強く反対した。更に、大佐は、「それでは、潜水艦でニュージーランドに接近し、マオリ族の中にパラシュートで降りて、日本側につくよう説得できるか?」と聞いてきた。が、これも全く望みのない話であるとその場で断固断った。が、さすがにこの質問に対しては閉口した。終始に否定的と思われる回答に業を煮やしたような表情で大佐は暫く川瀬氏を凝視していた。がややあって、「いずれにせよ、日本軍がニュージーランドへ侵入する場合、軍は君を案内役として起用するであろう」とだけ告げ、大佐はその場を立ち去った。
「軍の案内役」。。。。。もし、そのような状態で再びニュージーランドへ訪れば、間違いなく自分はニュージーランドの人々から反逆者の刻印を押される。それを自らが受け入れることなど到底無理なことであることぐらいは今更自身に問いただすまでもないことだった。とはいえ軍隊の命令は、父親の命令の比ではない。例えようのない絶望感が彼を包みはじめた。「自分は一体どうすればよいのか?」 留学時代、大変お世話になったニュージーランド人の親切を思うに付け、これは「死を持って償う以外ないのでないか?」彼はそう思った。しかしキリスト教徒である彼にとって自ら命を絶つこと、それも許されなかった。それならば、いっその事、軍の案内役になりニュージーランドに赴き、ニュージーランドの人の手によって射殺されるか? 落ち着く場所を失った自身の運命の先行にこれといった手段も見つからないまま、どうか、「最悪の状況がおこらないよう」、彼はひたすら神に祈るのみだった。いつのまにか夕日が軍の特別会議室の狭い窓に差し込んできていた。川瀬氏34歳の夏の日の出来事だった。
1945年8月15日、42歳。終戦を迎えた。大戦の結果は、ここに述べるまでもなく日本はたくさんの犠牲者を輩出したうえに敗北した。幸いに、日本軍が直接ニュージーランドに侵略することは起こらなかった。川瀬氏の身辺も例外なくこの戦争で妹と二人の甥、それに数多くの知人を空襲で失うことになった。そのあたりの経緯は、川瀬氏書、“ある農学者の手記”より、1950年英語で執筆され又長女のショウ子さんが日本語に翻訳され、原本は今現在カンタベリー大学の図書館にて保管されている。
戦後、再び彼は、牧場経営と牧草学の研究に没頭していった。研究姿勢は以前と全く変わりなく常に現場の目線に立ち、現場の歩調にあった成果を元に数々の論文を発表していった。
1954年11月、日本草地研究会を創立。加えて1957年3月、49歳。北海道大学より農学博士号を授与された。戦後の彼は草地学の研究だけに留まらなかった。成人してから様々に携わってきたニュージーランドに何らかの形で恩返しがしたいという思いから1968年、11月2日、51歳。New Zealand Society of Japan (日本ニュージーランド協会)を東京にて結成、その会の副会長となった。次いで1972年62歳、日本ニュージーランド協会関西支部を大阪に結成、川瀬氏がこの世を去るまでの29年間という長きにあたって会長を務めた。同年62歳、今度は作曲を学び始める。1977年9月、69歳。自作“古典舞曲”をバィエールフィル(現、関西フィル)のオーケストラの演奏で西宮にて発表会を行う。
そして1979年3月、71歳。ニュージーランド大使館から川瀬氏に勲章を賜るという旨の連絡が入った。それはQSO (Queens Service Order) といって、ニュージーランド政府を通じて英国のエリザベス女皇より授与され、ニュージーランド人以外では世界で2人目という名誉のある上級勲章だった。余り表彰されるようなことを好むような性格ではなかったため、彼は一端は辞退も考えた。が授与の理由を聞いて考えが少しづつ変わっていった。
授与の理由は、たった一人のニュージーランド大学卒であるにも拘らず、日本の諸大学の巨大学閥にもめげずに日本で草地の研究及び指導をどんどん行ってきたこと、そして、もうひとつは、第2次世界大戦中、軍国主義の日本国において、日本軍のニュージーランド侵入計画を阻止し、ニュージーランドを東側敵国の侵略から守ってくれたこと、だった。
その理由を聞き、彼は勲章を授与することに踏み切った。この受賞を誰よりも喜ばれたのは奥さんのはまさんだった。「外国かぶれの青二才」と蔑まれながらも信念を持って日本で取り組んできた草地の研究と、戦時中ニュージーランドへかけた想いと侵略阻止への必死の抵抗とその行動がやっと天に通じた、とはまさんは思った。常に明るいユーモラスな性格の夫ではあったが、人には見せられない苦悩はそれは人並みにあり、それをはまさんは傍にいて常に彼を見守ってきたのだ。この勲章は、川瀬氏自身に授与されたのと同時にはまさんへも授与された勲章といっても過言ではない。
はまさんは、授与半年後この世をさった。死ぬ直前、長男の巍さんは、母の危篤の知らせを受け、何とか、もう一度、母に会いたいと、祈りながら母の病床に向かったが、母の死に目に会うことはできなかった。深い眠りにつきながら、はまさんはその勲章を大事に大事に握り締めていたという。古式ゆかしい母の内助の功があったからこそ、父はQSO勲章を授与することができのだと巍さんは今でも信じている。そして川瀬氏自身もそう感じたからこそ授与を承諾したのだと僕は思っている。
はまさんがこの世を去ってから約10年の月日が過ぎた1989年。彼は81歳になっていた。そして80歳を迎えて彼は更に大きな事業を行うことになる。ニュージーランド初の「日本祭」である。1968年に発足したニュージーランド協会関西支部も始めはどこから手をつけたらよいやら皆目見当がつかなかったといっていた発足当時からの会員もドクター川瀬の「友好と親善とはすなわち人」という明快な方針に導かれ、年月を重ね、会員も数十人と増え、集会も100回目を迎えようとしていた。加えて1990年はニュージーランド建国150年祭りを催すことになった旨の連絡を川瀬氏は受けていた。では、第100回の集会は、ニュージーランドの150年祭りを祝しつつ、クライストチャーチで開催しようではないかということになった。そこで、早速クライストチャーチに渡り150年祭実行委員長であり内務大臣且つ芸術大臣のバゼット氏に会見、この機会にクライストチャーチにて「日本祭」を催そうということになった。
かくして、第一回、Festival of Japanが開催した。1990年7月、川瀬氏82歳。日本からは、俳優、石坂浩二さん率いる劇団などを筆頭に760名。ニュージーランド史上最大規模の日本祭がクライストチャーチにて実現した。川瀬氏自身も、このFestivalで自作の「古典舞曲」を変形、「古色」と変名し発表した。彼はこの曲に対して以下のように述べている。
「【古式】の第一楽章は、くすんだ褐色がかった赤色です。雅楽を少しとりあげてみました。第二楽章は、金色がかった黄色です。仏教の高僧たちが好んでこの色のガウンを着ています。第三楽章は、淡い緑色です。早春の牧草地をわたる春風、私はハープを用いて、それを表現したいと思いました。第四楽章は、紫色がかった空色です。祝祭のときや貴族の着物によく用いられる色です。本作曲は西洋の音階によらず、日本の古調によりました。私は西洋音楽を愛する者ですが、明治の生まれですから自然にそうなったのです」
Festival of Japanは一回だけにとどまらずその後も以下のように続いていった。
第2回目1992年 日本からの参加者、516名。
第3回目1994年 日本からの参加者、555名。
第4回目1996年 日本からの参加者、250名。
第5回目1999年 日本からの参加者、350名。
このFestivalでは、最終的に約2,400人の日本人をニュージーランドに渡航させると共に、延べ50日間に渡って約20万人のニュージーランド人観客をクライストチャーチにて動員。ニュージーランドの日本への知識を大いに高めることに貢献した。川瀬氏80歳を過ぎてから約10年間にわたっての功績である。
1999年8月、第5回目のFestival of Japan。川瀬氏は91歳になっていた。パスポートの有効期限がきれていたので10年間の再発行を済ました。老いてはきたものの外見は至って元気だったため誰も川瀬氏の健康状態を疑うものはいなかった。が、「恐らく、これが最後のニュージーランド旅行になると思う」と彼はごく近しい人たちにはそう漏らしていたらしい。今回も既に約350名の方が参加されていた。Festival of Japanはアートセンターを中心にいろいろなブースを設けそこで様々な芸能を披露するという形式で行われた。「日本祭」だからといって別に日本の伝統芸のみに拘ったわけではなかった。もちろん雅楽や能、お茶といった伝統芸に加え、バレエ、フィルファーモニー、バイオリンなどその分野は実に多岐にわたった。特に第5回目の試みとして、落語、演歌などもプログラムに加わった。
その中で川瀬氏は団長として全てのプログラムの責任と指揮をとる立場にあった。が、彼の容姿からは責任者としてのある種の威圧的な圧迫感は一切感じられなかったという。彼はいつのときでも常に穏やかで、Festival開催中、ハグレー公園を流れるエイボン川の畔を早朝散歩することを日課としていたが、赤のチョッキにグレーのジャケット、トレードマークのベレー帽を斜めにかぶり、お気に入りのスティック(杖)を右手にエイボン川の畔を歩く姿は、91歳という年齢とは思えないほど粋でお洒落で、大きなEVENTの実現に向けて日々緊張する関係各位を大いに和ませたという。Festivalの最終日、彼は自作第2弾“愛しきニュージーランド”を発表した。その曲について彼は以下のように述べている。
「第一楽章は、マオリ民族のニュージーランド到着です。上陸した喜びをマオリ民謡 ”ホキマイ“を用いて表現しています。第二楽章は、カンタベリーの開拓です。森の木々を切り倒し、野を焼き、牧草の種子を蒔いて、牧草地に改良し、家畜を導入していく過程を音楽で表したいと試みました。第3楽章は、ニュージーランドの名所1箇所に1分ずつ、合計12箇所について、様々な楽器と民謡を応用しながらお聞かせしたいと思いました。例えば、ホークスベイのときには”マイボニーイズオーバージオーシャン、ダニーデンのときはスコットランド民謡の“ハンドレッドパイパーズ”を用いています。第四章楽章は、ニュージーランド成立の歴史を行進曲で表しました。そしてニュージーランド国家が成立したところで、みなさまにもご起立を願ってオーケストラとともにニュージーランド国家を歌ってみたいと思いました」
この曲はFestivalの最終日、クライストチャーチ、ユース、オーケストラの演奏でアートセンターにて演奏された。その演奏を川瀬氏は客席側の席に座って聴いていた。しっかりと心に刻み込むようにゆっくりと彼は聴いていた。この曲は、彼自身が語るようにニュージーランドの歴史をテーマに作成されたわけだが、23歳の若さで日本人で初めての留学生としてクライストチャーチに赴いてから68年間の彼の生涯をも同時に物語っていることはあえていうまでもないことである。
このFestivalの2日後、川瀬氏はこの世を去った。彼が亡くなる日の朝、彼はクライストチャーチの某ホテルにいた。日本からの参加の方々が順々にクライストチャーチを去る日だった。彼は、孫の健君と相部屋だった。トイレにいこうと立ち上がったが体が重く思うように立ち上がれそうになかったので、健君が肩を彼に借す形で抱き上げた。と、その瞬間、急にうずくまったと思うや、軽い痙攣を起こし、健君に抱かれるような格好で彼はこの世をさった。急性心不全だった。
それから約10年後の2010年10月13日。ドクター川瀬の除幕式がカンタベリー大学で開かれた日は校舎のポプラやイチョウの草木が新芽を春風にたゆがせた清々しい一日だった。彼のプレートは除幕式までにメイン講堂に埋め込まれ、今回の式典はその場所で開かれる予定だった。が先般からのクライストチャーチ地震のため講堂の一部が破壊、修復工事をしなければならない状態になってしまった。そのため、除幕式は急遽別の会議場で行われた。日本からニュージーランド協会(関西)(関西支部より変名)現会長、呉橋さんと事務局長の桑原さん率いるメンバー約10名の方々が式にご参加された。現地側は大学関係者、総領事館、川瀬氏とゆかりのある元大臣など約15名がご参加され合計25名ほどの参加者を募っての式となった。
ニュージーランド協会(関西)の会長、呉橋さんがSPEECHを行っている。ドクター川瀬仕込み(?)の大変ユーモラスで明るく楽しいスピーチだった。参加者の笑い声が聞こえる。川瀬氏が発起人となり結成されたニュージーランド協会(関西)も40年を迎えた。
「明日のことを思い煩うことなかれ」- キリスト信者としての彼の思想が彼の笑顔と音符にのって聞こえてくるように感じられた。
「私はかくのごとく、とにかくニュージーランへ初めて勉学に来た日本人として、1933年のクリスマス直前に卒業書をいただくこととなりました。卒業証書をいただくときに、アレキサンダー校長から“川瀬君、君はおそらく日本人として始めて草地農学を勉強した者であろう。願わくば、草と一生はなれない人生を送ってほしい、といわれました。私は校長のこの言葉を守りました。そして、日本人として”草分け“になったのみならず、いまだに”草まみれ“になって人生を終わらんとしています草々しい人生でした。」
彼がこの世を去る4年前の1995年11月の会報「ニュージーランド、あれやこれや」に残した彼の言葉である。
【写真】
冒頭の写真は、川瀬氏卒業式の際の写真。
後半の写真は、富山県高山市にて作成された、ドクター川瀬氏のプレート。