第2回 寄与過失
止めておいたあなたの車に誰かの車が衝突してきたとします。この場合、相手の責任は明白であるように思われますが、もしあなたが駐車禁止の場所に止めていた場合はどうでしょうか?相手はこう言ってくるかもしれません。「あなたがこんな所に止めていなかったら、事故は起こらなかった。だから私の車の修理代を支払え!」
(Quarter 2002年冬号より)
判例に見る寄与過失
上記と同様の問題を含んだニュージーランドの訴訟にヘルソン対マッケンジーズ(1950年)と呼ばれている判例があります。
PはDの店で買い物をした後、お金のたくさん入ったハンドバッグを店のカウンターにうっかり置き忘れたまま出て行ってしまいました。すぐに気付いて店に戻った時にはすでに手遅れで、店員がハンドバッグの持ち主だと言ってきたほかの誰かにすでに手渡してしまった後でした。持ち逃げした「犯人」はどこの誰か分らないので、PはDを訴えました。そして、裁判の過程で次のことが明確になりました。本当のバッグの持ち主なら、その中身について知っているはずです。しかし、店員はこのことを尋ねることなく、また「犯人」もバッグの外観について述べただけで、バッグは手渡されてしまったのです。
Pは、本人確認をしっかりしないでDの店員が他人にバッグを渡してしまったのだから、Dが責任を取るべきだと主張します。一方Dの言い分は次のようなものでした。「うっかり誰かに渡したのはミスだが、大金の入ったバッグを置き忘れたPにも責任がある。Dはあくまでもサービスの一環として預かっていたのであって、ホテルの荷物係ではないので、預かっていること自体に法的な責任はない」
裁判所が、訴えた側にも落ち度があると認めた場合、これを寄与過失、Contributory Negligence(コントリビュートリー・ネグリジェンス)と呼んでいます。つまりDの過失にPも手を貸しているということです。このようなケースの責任の取り方には興味深い歴史があります。
過失の割合によって責任分担
19世紀ごろの判例を見ると、訴えている者(原告)に少しでも非があれば その要求がまったく認められませんでした。これでは原告に厳しすぎるということで、次のような原則(ルール)が新しく取り入れられました。原告に幾らかの非があったとしても、訴えられた人(被告)にその「事故」を避ける機会があった時は、被告の全面的な負け。すなわち「事故」を避けることができたかどうかの最後のカギを握っていたのは被告だったので、被告に全面的な責任があるとするものです。
1947年までは、上記の判例のいずれに従うとしても、原告、被告のどちらか一方が全面的に責任を負うことに変わりはありませんでした。そこで制定法(国会で通された法律)として取り入れられた考え方が、双方の過失の割合に応じて責任を分担するというものです。初めに述べたヘルソンのケースでは、裁判所は原告が失った金額の4分の1を被告に支払うように命じています。
非はあなたにだけあるわけではない
さて、現在私たちの周りで起こる身近な争い事には、一方にのみ明らかな非がある場合よりは、争っている双方に幾分かの非がある場合の方が多いのではないでしょうか? そんな場合でも、あなたの非だけを一方的に責めてくる相手(しかも英語で)に押し切られないことが大切です。
すでに述べたように、裁判所ですら、昔は一方の非だけにこだわった考え方しかできなかったわけですから、「私も悪いが、あなたも悪いのだから……」ですべてを片付けられてしまう考え方に陥る可能性は誰にでもあるように思われます。これに対抗するために、寄与過失の考え方、すなわちそれぞれの非に応じた割合で責任を分け合うという考え方がニュージーランドでも十分通用することを知っておくことは大いに役に立つのではないかと考えています。
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